レオナルド・ディカプリオの人生と代表作を紹介
ハリウッドのスーパースター、レオナルド・ディカプリオ。彼のキャリアは数十年にわたり、彼は多くの名作で不朽の名声を築いてきました。若い頃からその才能を発揮し、全盛期を迎え、現在もなお輝き続けています。
14歳で初めてテレビコマーシャルへの出演を果たし、テレビドラマにも出演を重ねるようになり、1993年に出演した『ギルバート・グレイプ』で、19歳にしてアカデミー助演男優賞にノミネートされました。その後も立て続けに映画への出演を重ね、『ロミオ+ジュリエット』ではベルリン国際映画祭の銀熊賞 (男優賞)を受賞しています。
1997年に公開された映画『タイタニック』で一躍世界的なスターとなり、その後も、『アビエイター』や『ウルフ・オブ・ウォールストリート』など、数々のヒット作に出演し、俳優としての地位を確立しました。2016年に映画『レヴェナント:蘇えりし者』で、アカデミー主演男優賞を受賞し、悲願のオスカーを手にしています。
この記事ではそんなレオナルド・ディカプリオが、家族に支えられ、子ども時代の壮絶なイジメから俳優をめざしてハリウッドスターとなり、ついに悲願のアカデミー主演男優賞受賞に至る人生を振り返ります。
さらにレオナルド・ディカプリオの若い頃や全盛期の代表作の映画を順番に紹介していきますので、最後まで付いてきてくださいね!
壮絶なイジメにあって俳優を目指す
レオナルド・ディカプリオは1974年11月11日、カリフォルニア州ロサンゼルスで生まれました。父親はイタリア系とドイツ系、母親はドイツ系です。
母親のイルメリンは、第2次世界大戦直後の廃墟のドイツから、アメリカでも移民が多く犯罪率の高い、ニューヨーク・ブロンクスに家族で移民してきました。
厳しい生活環境にもかかわらず、真面目に働いて子どもを育てた祖母や母は、レオナルド・ディカプリオにとって大事な心の支えとなります。
家族にドイツ系が多いため、レオナルド・ディカプリオも自然にドイツ語が話せるようになりました。『ジャンゴ 繋がれざる者』で共演したオーストリア出身の俳優、クリストフ・ヴァルツとは、 セットで130日間ドイツ語で話し合っていたそうです。
一方、父親のジョージは、1970年代からアンダーグラウンド・コミックスの世界でアーティスト、編集者、出版者を1人で何役もこなして活躍していました。
レオナルド・ディカプリオは、このジョージから特に芸術家としての才能を受け継いでいます。
「レオナルド」という名前も、ルネサンスを代表するイタリアの画家、レオナルド・ダヴィンチにちなんでつけられた名前です。
レオナルド・ディカプリオの母親が妊娠していたとき、イタリア・フィレンツェのウフィツィ美術館でレオナルド・ダヴィンチの絵を見ていたら、お腹のレオナルドがキックしたことから、この名前になったそうです。
父親のジョージにはパフォーマンス・アーティストとしての才能もあり、レオナルド・ディカプリオが俳優となることに重要な影響を与えることになります。
ジョージ・ディカプリオのパフォーマンスとしては、小さなエビやミミズのような虫に冷水をかけて動き回る姿を、壁に拡大して映写した、という話が伝えられています。
このようなジョージは、大学生のときイルメリンと知り合い、結婚してロサンゼルスに移り住みました。
しかし、レオナルド・ディカプリオが1歳のときに両親は別居、レオナルド・ディカプリオはほとんど母親の元で暮らすことになります。
ですが、「父親無しで成長するのは可愛そうだ」、ということで、レオナルド・ディカプリオの父親はガールフレンドとともに、元妻の近所で生活するようになりました。
やがて、ジョージにはガールフレンドとの間にアダム・ファラーという男の子が生まれますが、レオナルド・ディカプリオはこの母親の違う弟とも親しくつきあいながら成長します。
子ども時代のレオナルド・ディカプリオの家庭は豊かではなく、母親はいくつもの仕事をしなければなりませんでした。
やがてレオナルド・ディカプリオの一家は、ハリウッドの近くに引っ越します。そこでレオナルド・ディカプリオは子どもながら、人生の両極端を目にすることになりました。
レオナルド・ディカプリオの家の周辺は貧しかったのですが、少し離れたハリウッドには、庭にプールのある豪邸が軒を連ねています。
レオナルド・ディカプリオは、ハリウッドの光と影を、意識せずとも目にすることになります。
さらに学校での体験がレオナルド・ディカプリオに、人生の天国と地獄を見せてくれました。
レオナルド・ディカプリオは小学生のとき選ばれて、カリフォルニア大学ロサンゼルス分校の敷地内にある、実験的な学校に通うようになります。
レオナルド・ディカプリオの家から離れたところにある学校に、母親が彼を毎日、車で送り迎えします。
通学はそれほど遠距離ではありませんが、レオナルド・ディカプリオが住む地域と大学のある地域は、環境に雲泥の差がありました。
大学の敷地内で、最先端の研究にもとづいた教育を行う学校は、「エデンの園だった」とレオナルド・ディカプリオは回想しています。
広々とした校庭で太陽を浴びながら、さまざまな背景を持つ子どもたちが、平和に遊んでいました。そこは、あらゆる人種や宗教が平等に尊重される多文化主義の理想の場だったのです。
しかもレオナルド・ディカプリオが学校の友達の家に行くと、そこはビバリー・ヒルズの豪邸だったりします。庭にプールがあるのはもちろん、滝が作られている家さえあったそうです。
そんな天国のような学校生活から、普通の公立学校にもどったレオナルド・ディカプリオは、厳しい現実からカルチャー・ショックを受けることになります。
レオナルド・ディカプリオの学校は特に荒廃していたようで、麻薬や売春が日常茶飯事であった、と言います。
レオナルド・ディカプリオは入学したその日から、態度が気に入らないというだけでボコボコにされました。
それまでの多文化主義で平和な理想的学校から一転して、暴力が支配する現実の世界に引き戻されたのです。
そんな学校での壮絶な体験が、レオナルド・ディカプリオが真剣に俳優を目指すきっかけとなりました。俳優になることが、地獄の公立学校から逃げ出す唯一の道だったのです。
レオナルド・ディカプリオは母親に、「俳優になりたいんだ。オーディションに連れて行って」と泣きつきます。レオナルド・ディカプリオが15歳のときでした。
とは言え、レオナルド・ディカプリオはその前から演技に関心を示していました。
レオナルド・ディカプリオは子どものときに、「将来は海洋生物学者か俳優になりたい」と思っていたそうです。
海洋生物学への興味は、将来レオナルド・ディカプリオが環境保護運動に力を入れることと関係があるかもしれません。
演技への関心は、何と2歳のときにパフォーマンス・フェスティヴァルの舞台で踊って、観客の反応を見たときに芽生えたと言います。
母親の違う弟、アダム・ファラーがテレビのコマーシャルに出演して、子どもとしては高額のギャラをもらったことも、俳優という仕事を魅力的にしました。
父親のジョージが、レオナルド・ディカプリオに子どもの頃から映画をたくさん見せていたことも、 彼が俳優業を目指す大きな要因でした。
レオナルド・ディカプリオは、1993年に『ボーイズ・ライフ』でロバート・デニーロと共演して一躍有名になります。ですが、レオナルド・ディカプリオはこの映画に出演する前に、父親ジョージのおかげでロバート・デニーロの映画に親しんでいたのです。
レオナルド・ディカプリオが父親に連れられてロバート・デニーロの『ミッドナイト・ラン』を観たのは、何と9歳のときでした。
ジョージはレオナルド・ディカプリオにロバート・デニーロのことを「偉大な俳優だ」と言って紹介しました。
「俺に言ってんのか?」の名セリフで映画史に残る『タクシー・ドライバー』も、レオナルド・ディカプリオは13歳のときに鑑賞しています。
このようなレオナルド・ディカプリオは14歳のときにミニカーの広告に出演したのを皮切りに、チーズや風船ガムの広告に出演するようになりました。
さらにレオナルド・ディカプリオは15歳になる1989年には、テレビドラマ「名犬ラッシー」の2つのエピソードに出演しています。
その後、公立学校の教育に失望したレオナルド・ディカプリオは、俳優業が忙しくなって高校を中退し、後に高校卒業と同等以上の学力を有することを証明する試験を受けて合格することになります。
レオナルド・ディカプリオの若い頃
最初の映画は『クリッター3』(1991年)
レオナルド・ディカプリオの最初の映画は、1991年に公開された『クリッター3』です。
『クリッター3』は『クリッター4』と並行して撮影された低予算のホラー映画でした。彼の役は家主の義理の息子の役で、「平均的な金髪少年」のキャラクターです。ディカプリオはこの映画のことを「史上最悪の映画のひとつ」と呼んで、思い出したくないとさえ言っています。
俳優として本格的活動を始めたレオナルド・ディカプリオですが、しばらくはまったく認められず、エージェントも見つからないほどでした。
エージェントのなかには、「レオナルド・ディカプリオという名前はアメリカ風でない、レニー・ウィリアムズに変えたら」とふざけたことを言う人もいました。
こうしてレオナルド・ディカプリオはオーディションを100回受けても役がなく、 1年半も失業状態が続きました。俳優業を諦めかけたレオナルド・ディカプリオを励まし、経済的にも支えてくれたのは、父親のジョージでした。
オーディションを受け続けたレオナルド・ディカプリオは、ようやく母親の友人の知り合いのタレント・エージェントから、コマーシャル20本の契約を得ます。
『ボーイズ・ライフ』(1993年)
しかし1993年、レオナルド・ディカプリオの人生を変える出会いがありました。
レオナルド・ディカプリオが子どもの頃、父親から「偉大な俳優だ」と聞かされたあのロバート・デニーロが、彼を映画の共演者に選んでくれたのです。
その映画は『ボーイズ・ライフ』という、アメリカの作家トバイアス・ウルフの半自伝的小説の映像化でした。
ロバート・デニーロは『ボーイズ・ライフ』に、主人公の義理の父役で出演が決定しており、主人公の少年役選びにも関与していました。そのロバート・デニーロが、400人もの俳優のリストの中から、レオナルド・ディカプリオをピックアップしてくれたのです。
当時、レオナルド・ディカプリオは撮影現場での作法もわからなかったため、監督のマイケル・ケイトン=ジョーンズがしつけをしなければなりませんでした。
ですが、『ボーイズ・ライフ』でのレオナルド・ディカプリオの演技は、「反抗的少年が複雑な成長を経て大人になる過程を完璧に再現した」と高く評価されました。
さらにまだ無名のレオナルド・ディカプリオを、ロバート・デニーロはマーティン・スコセッシ監督に紹介してくれたのです。
ロバート・デニーロとマーティン・スコセッシは、『タクシー・ドライバー』や『グッドフェローズ』といった名作を次々に生み出した名コンビです。
そのロバート・デニーロがある日、マーティン・スコセッシ監督に電話で、「いますごく演技の上手い少年と仕事をしているんだ。いつか彼と一緒に仕事をするといい、ディカプリオという名前の子だ」と言ったそうです。
スコセッシ監督は、「ロバート・デニーロが突然、電話で人を紹介するなんて、とても特別なことだった」と語っています。
その電話から約10年後、21世紀になって、レオナルド・ディカプリオとマーティン・スコセッシ監督のコンビは、『アビエイター』、『ディパーテッド』、『ウルフ・オブ・ウォールストリート』といった名作を次々と世に送り出すことになりました。
『ギルバート・グレイプ』(1993年)
さて『ボーイズ・ライフ』と同じ1993年にレオナルド・ディカプリオは、青春映画『ギルバート・グレイプ』でジョニー・デップと共演を果たしています。
『ギルバート・グレイプ』はアメリカ・アイオワ州の田舎を舞台に、知的障害を持つ弟や過食症の母を抱えた一家の生活を支える青年の姿を描いた作品です。
レオナルド・ディカプリオはこの映画で、ジョニー・デップ演じる主人公の弟で、知的障害を持つ少年アーニーという難しい役を演じました。
監督を務めたラッセ・ハルストレムは、「顔が良すぎる」と言って、レオナルド・ディカプリオの起用に最初は消極的でした。
しかし、レオナルド・ディカプリオがオーディションに来た俳優のなかで、最も観察眼が鋭かったことから、彼をアーニー役に使うことにします。
レオナルド・ディカプリオは障害を持つ少年たちの仕草を観察して、演技に取り入れました。
『ギルバート・グレイプ』は興行的には大失敗でしたが、映画の評価は高く、レオナルド・ディカプリオは19歳にしてアカデミー助演男優賞ノミネートという快挙を達成します。
ちなみにレオナルド・ディカプリオは同じ時期に、ファンタジーコメディ『ホーカス ポーカス』の出演の話も来ましたが、『ギルバート・グレイプ』を選んで断っています。
『ホーカス ポーカス』は公開当時の評価はよくなかったですが、その後カルト的人気が出てきて、2022年には29年ぶりに続編が製作されました。
『太陽と月に背いて』(1995年)
俳優として駆け出しの頃のレオナルド・ディカプリオは、父親のジョージが脚本を読んで、出演する映画を決める手伝いをしていました。
1995年に公開された『太陽と月に背いて』は、ジョージの説得でレオナルド・ディカプリオが出演を決めた作品のひとつです。
この映画はフランス文学史上最も有名なゲイのカップル・ランボーとヴェルレーヌの姿を描いた歴史ドラマです。
レオナルド・ディカプリオはこの映画で、妻子持ちの詩人ヴェルレーヌの心を揺さぶる美青年詩人、ランボーの役を演じています。
最初レオナルド・ディカプリオは、この役を断るつもりでした。
しかし、父親のジョージが、「ランボーは19世紀当時のフランスでは、ジェームズ・ディーンのような存在だった」と言って、この役を演じるように説得しました。ランボーは、硬直化していた文学界を相手に革命を起こした人物だ、とジョージは言ったのです。
こうしてレオナルド・ディカプリオはこの役を演じることになり、やってみると非常に気に入ったそうです。
『クイック&デッド』(1995年)
『太陽と月に背いて』が公開された1995年は、レオナルド・ディカプリオが次々と映画に出演して注目を集めるようになった年で、『クイック&デッド』や『バスケットボール・ダイアリーズ』といった話題作が続きました。
『クイック&デッド』は、『氷の微笑』で有名な女優シャロン・ストーンが主演を務め、製作にも参加した異色の西部劇です。
シャロン・ストーンは、当時若手ホープだったレオナルド・ディカプリオの才能を見抜いて、自分のギャラの一部をつぎ込んで出演させるほどの入れ込みぶりでした。
『バスケットボール・ダイアリーズ』(1995年)
『バスケットボール・ダイアリーズ』は実在した不良少年ジム・キャロルの自伝的小説にもとづいた青春ドラマです。
バスケットボールや文学の才能もある少年が、ヘロイン中毒で身を持ち崩す姿を描いた物語で、麻薬や売春のリアルな描写が問題になり、韓国では公開禁止になるほどでした。
しかし、レオナルド・ディカプリオの少年時代は、まわりに麻薬や売春が日常茶飯事だったので、こういった映画も難なく演じられます。
それというのも、父親のジョージは、麻薬や幻覚剤の知識が豊富だったからです。
ジョージは1979年に、LSDなど幻覚剤の研究で有名な心理学者ティモシー・リアリーをネタにしたコミックの原作を書いています。
ティモシー・リアリーはハーバード大学で幻覚剤の研究をして有名になり、リチャード・ニクソン大統領から「アメリカで最も危険な男」と呼ばれた人物です。
リアリーはカウンター・カルチャーの文化・芸術からサイバーカルチャーまで、様々な領域に大きな影響を与えています。
このティモシー・リアリーは、ジョージが再婚するときの仲人の役割も果たすほど、ジョージと親しくしていました。
レオナルド・ディカプリオも、自らが主演でティモシー・リアリーを演じる映画の製作を進めている、と報道されたことが一時期ありました。
このようにレオナルド・ディカプリオはまわりで麻薬や幻覚剤を使う人をたくさん見てきたため、薬物に溺れる人の役を演じるのは朝飯前でした。
さらに、映画で薬物依存の演技をしても、実生活で依存症になることもなかったのです。
『ロミオ+ジュリエット』(1996年)
1996年、レオナルド・ディカプリオはシェイクスピアの『ロミオとジュリエット』の設定を現代に移した『ロミオ+ジュリエット』の主人公ロミオ役を演じます。
この役もレオナルド・ディカプリオは乗り気でなかったのですが、父親のジョージが説得して出演することになりました。
映画は大好評で、レオナルド・ディカプリオはベルリン国際映画祭で男優賞にあたる銀熊賞を受賞、美青年スターの地位を確立します。
『タイタニック』(1997年)
そうして迎えた1997年末に公開された『タイタニック』は爆発的ヒットとなり、レオナルド・ディカプリオは一躍ハリウッドスターとなりました。
1912年に豪華客船タイタニック号が沈没した事故を描いたこの映画でレオナルド・ディカプリオは、画家を目指してアメリカに移民する青年ジャックを演じました。
ジャックと恋に落ちる上流階級の女性ローズ役は、当時若手として注目されつつあったイギリスの女優・ケイト・ウィンスレットです。
ジャックとローズは身分の違う禁断の恋ということで、「ロミオとジュリエットの豪華客船版」とも言えます。
レオナルド・ディカプリオの端正な顔立ちと真直ぐな演技が若い女性を中心に大人気となり、「レオマニア」と呼ばれる熱狂的ファンが生まれました。
映画『タイタニック』はアカデミー賞で史上最多の11部門を受賞しましたが、なぜかレオナルド・ディカプリオはノミネートさえされませんでした。
このときからレオナルド・ディカプリオのアカデミー賞受賞までの長く苦しい道のりが始まるといえます。
全盛期=アカデミー主演男優賞への長い道のり
『タイタニック』の成功でレオナルド・ディカプリオはハリウッドの大スターとなりました。その後の彼の全盛期は、アカデミー主演男優賞を受賞するまでの長い道のりと重なっています。
『仮面の男』(1998年)
1998年にレオナルド・ディカプリオは、『三銃士』で有名なアレクサンドル・デュマが原作の 歴史娯楽映画『仮面の男』で一人二役の主演を務めました。
『仮面の男』は当時上映中だった『タイタニック』に次ぐ興行収入をあげましたが、映画としての評価は最悪でした。
レオナルド・ディカプリオは最低映画の祭典ラジー賞、ことゴールデン・ラズベリー賞で、一人二役の演技が最低スクリーン・カップル賞に選ばれるという屈辱を経験します。
さらに、『アメリカン・サイコ』の2千万ドルというギャラを捨てて主演した『ザ・ビーチ』も、興行的にはまずまずだったものの評価は最悪。レオナルド・ディカプリオはラジー賞で最低主演男優賞にノミネートされましたが、ジョン・トラボルタが受賞して、2度目の屈辱は免れました。
21世紀になってレオナルド・ディカプリオは、今までの美青年のイメージとは異なる映画に 積極的に出演するようになります。
『ギャング・オブ・ニューヨーク』(2002年)
2002年に、ロバート・デニーロが推薦した巨匠マーティン・スコセッシとの初タッグが実現しました。
その映画は、19世紀半ばのニューヨークを舞台にギャングの抗争を描いた歴史映画『ギャング・オブ・ニューヨーク』です。
レオナルド・ディカプリオは殺された父親の復讐に燃える主人公を熱演しましたが、なぜかアカデミー主演男優賞には敵役を演じたダニエル・デイ=ルイスがノミネートされています。
『アビエイター』(2005年)
2005年に再びスコセッシ監督と組んだ伝記映画『アビエイター』でレオナルド・ディカプリオは、映画製作と飛行機開発に心血を注いだ異色の大富豪ハワード・ヒューズを演じました。
『アビエイター』でレオナルド・ディカプリオはヌードを披露するほどの体当たりの演技を見せて、初めてアカデミー主演男優賞にノミネートされます。
しかし2005年の主演男優賞は、「ソウルの帝王」レイ・チャールズの波乱万丈の人生を演じたジェイミー・フォックスに奪われました。
『ブラッド・ダイヤモンド』(2007年)
2007年にレオナルド・ディカプリオは、内戦に揺れるアフリカを舞台にした社会派ドラマ『ブラッド・ダイヤモンド』で違法ダイヤの密売人に扮して、2度目のアカデミー主演男優賞ノミネートを果たします。
しかし、2007年の主演男優賞は、同じアフリカを舞台にした『ラスト・キング・オブ・スコットランド』で、狂気の独裁者を演じたフォレスト・ウィテカーが受賞しました。
『ディパーテッド』(2007年)
同じ年にレオナルド・ディカプリオは、スコセッシ監督とタッグを組んで『ディパーテッド』に出演しています。
この映画からはマーク・ウォールバーグがアカデミー助演男優賞にノミネートされていました。
『ディパーテッド』がアカデミー作品賞を始め4つの部門を受賞したとき、レオナルド・ディカプリオの頭の片隅に、「せめて自分が助演男優賞にノミネートされていたら……」という思いがよぎったかもしれません。
その後もレオナルド・ディカプリオは、様々な名監督のもとで野心的な役への挑戦を続けます。
『レボリューショナリー・ロード/燃え尽きるまで』(2008年)
2008年にレオナルド・ディカプリオは、『レボリューショナリー・ロード/燃え尽きるまで』で、『タイタニック』の相手役だったケイト・ウィンスレットと再共演を果たしました。
『タイタニック』で悲劇の若い恋人役だった二人は、今回は結婚の危機を迎えた夫婦役です。
特に夫婦げんかの場面は心身をすり減らす壮絶なもので、疲れ切ったレオナルド・ディカプリオは次の作品の撮影を2ヶ月間遅らせるほどでした。
それほどまで頑張ってもレオナルド・ディカプリオのアカデミー賞ノミネートはならず、ケイト・ウィンスレットが同じ年の『愛を読むひと』で主演女優賞を受賞して、先を越されてしまいました。
『J・エドガー』(2011年) 『ジャンゴ 繋がれざる者』(2012年)
2011年にレオナルド・ディカプリオはクリント・イーストウッド監督作『J・エドガー』で、FBI長官のエドガー・フーヴァーに扮し、特殊メイクで70代の老人に変身しています。
さらに2012年のクエンティン・タランティーノ監督の西部劇『ジャンゴ 繋がれざる者』では、すすんで悪役に挑戦しました。
どちらの映画の演技もゴールデングローブ賞にノミネートされる高い評価を受けましたが、アカデミー賞にはノミネートすらされませんでした。
ここまでくると、レオナルド・ディカプリオはアカデミーから嫌われている、もう受賞は無理か、と言い出す人も出てくる始末です。
「レオナルド・ディカプリオ休業宣言」の真相
そんななか、2013年に日本で「レオナルド・ディカプリオ休業宣言」の噂が広まり、映画界に衝撃が走りました。
発端は、2013年ドイツの大衆紙ビルトのインタビューでした。
このインタビューでレオナルド・ディカプリオは、
ちょっと疲れきったので、長い休止期間をとることにした。2年の間に3本映画に出演したからね。でも恵まれた人間としての責任は果たしたい。世界を少しでも良くしたい。環境のために世界中を旅行するつもり
と語ったのです。
このインタビューの内容が「休業宣言」として報道され、ウィキペディアの日本語のレオナルド・ディカプリオの項目にも「2013年、ドイツのビルト紙上において俳優休業宣言をした」と書かれています。
しかし、『ジャンゴ 繋がれざる者』のPRのために日本を訪れたレオナルド・ディカプリオは、「ちょっと休暇をとりたいと言っただけだよ」と休業説をきっぱり否定しました。
ドイツの同じインタビューでも、「私はとても幸福な人間です。ずっと俳優になりたかったので、夢のような人生です」と言っていますから、最初から休業するつもりでの発言ではなかったのでしょう。
日本でも「大好きな俳優という仕事を止めるつもりはない」とハッキリ言って、日本のファンを安心させました。
『ウルフ・オブ・ウォールストリート』(2014年)
休業宣言騒動の翌年2014年、スコセッシ監督と5度目のタッグとなった『ウルフ・オブ・ウォールストリート』でレオナルド・ディカプリオはオスカー像まであと一歩、というところまで来ました。
この映画でレオナルド・ディカプリオは主演男優賞にノミネートされたばかりでなく、プロデューサーも務めていたため、作品賞でオスカーを手にする可能性もあったのです。
しかし、主演男優賞は20キロ以上減量してエイズ患者になりきったマシュー・マコノヒーに奪われ、作品賞は黒人監督作として史上初受賞となる『それでも夜は明ける』が受賞しました。
アカデミー賞ダブル受賞という大きなチャンスを逃したレオナルド・ディカプリオですが、自分の限界を超える難しい役への挑戦は続きます。
『レヴェナント 蘇えりし者』(2015年)
2016年2月、第88回アカデミー賞授賞式では、1人の俳優に注目が集まっていました。
『レヴェナント 蘇えりし者』で主演男優賞にノミネートされていたレオナルド・ディカプリオにとって、悲願のアカデミー受賞がかかっていたからです。
レオナルド・ディカプリオは19歳のときに助演男優賞にノミネートされてから、主演男優賞に3度もノミネートされたにもかかわらず、受賞はなりませんでした。
レオナルド・ディカプリオは業界で嫌われている、いじめられているのではないか、と勘ぐりたくなるほど、アカデミー賞に嫌われていたのです。
2015年に公開されたアクション・ドラマ映画『レヴェナント: 蘇えりし者』でレオナルド・ディカプリオは、アメリカの西部開拓時代を生きた実在の猟師ヒュー・グラスに扮しました。
この映画はアメリカ北西部の寒冷地帯を舞台に、熊に襲われ瀕死の重傷を負ったハンターが、過酷な自然を乗り越えて息子の仇を打つ物語です。
サバイバルの要素が多いストーリーで、レオナルド・ディカプリオは、凍った川に入る、実際に生のレバーを食べる、暖をとるため動物の死体のなかで眠るといった、過酷な撮影をこなしました。
そのかいがあってレオナルド・ディカプリオはついに主演男優賞に輝き、ハッピーエンドとなりました。
レオナルド・ディカプリオは初ノミネートから20年以上経って、悲願のオスカー像を手にすることができたのです。
授賞式の壇上でディカプリオは、映画のキャスト、スタッフばかりでなく、過去作でタッグを組んだマーティン・スコセッシ監督や、いつも彼を支えてくれた両親への感謝の言葉を述べました。
さらに受賞スピーチの締めくくりでは、環境保護への熱い思いを語ることも忘れませんでした。
レオナルド・ディカプリオの現在
レオナルド・ディカプリオは結婚しているの?
2013年のビルト紙のインタビューで「人生の目標は?」と問われたレオナルド・ディカプリオは、「家族、子ども、幸福、そして健全な環境」と答えていました。
20年以上かけてオスカー像を手に入れたレオナルド・ディカプリオですが、自分の子どもにはまだ恵まれておらず、結婚もしていません。
ですが、レオナルド・ディカプリオは30年近い付き合いの大親友・トビー・マグワイアの娘・ルビーの代父、ゴッドファーザーとして、彼女を自分の娘のように可愛がっている姿が報道されています。
『タイタニック』や『レボリューショナリー・ロード/燃え尽きるまで』で共演したケイト・ウィンスレットとも私生活では友人関係を続けており、彼女の子どもたちもかわいがっているそうです。
レオナルド・ディカプリオの彼女・恋人
私生活でレオナルド・ディカプリオは、ジゼル・ブンチェンを始めバー・ラファエリ、トニ・ガーン、カミラ・モローネといった、若いモデルたちとの交際が取りざたされてきました。
最新作『キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン』
こうして独身生活を満喫してきたレオナルド・ディカプリオも、2024年には50歳です!
2023年にレオナルド・ディカプリオは、マーティン・スコセッシ監督の犯罪映画 『キラーズ・オブ・ザ・フラワー・ムーン』で主演を務めています。
ダブル主演は、レオナルド・ディカプリオが尊敬するロバート・デニーロです。
レオナルド・ディカプリオとロバート・デニーロというスコセッシ監督お気に入りの2人の俳優が主演で、1920年代のオクラホマ州オーセージを舞台に、濃厚な犯罪劇が繰り広げられます。
50歳を迎えても、レオナルド・ディカプリオは映画でも私生活のニュースでも、ますますファンの心をつかんで離さないことでしょう。