ヴァンプの意味
「ヴァンプ」は吸血鬼=ヴァンパイアを略した言葉です。特に性的な魅力で男性を誘惑し、精力や資産まで吸い取る吸血鬼のような女性を指します。
1915年に公開されたフォックスの映画『愚者ありき』の女性主人公を「ザ・ヴァンプ」と名付けたことで有名になりました。
1910年代において「ヴァンプ」は、「ファム・ファタール」に相当する言葉と言えます。
ヴァンプの由来
それでは、なぜ男を食い物にする妖婦が吸血鬼と呼ばれるようになったのでしょうか。
その起源は19世紀末、1897年に遡ります。
1897年にイギリスの画家、フィリップ・バーン=ジョーンズが『吸血鬼(The Vampire)』という作品を発表しました。
モデルとなったパトリック・キャンベル夫人ことベアトリース・ローズ・ステラ・タナーは、ジョージ・バーナード・ショーとも親しかった有名な女優です。後に彼女は『マイ・フェア・レディ』の原作『ピグマリオン』が初演されたときに、イライザ役を務めています。
1897年当時パトリック・キャンベル夫人はフィリップ・バーン=ジョーンズとも関係があり、彼の作品のモデルとなったのです。
フィリップ・バーン=ジョーンズの従兄弟にあたる詩人ラドヤード・キップリングは、この画に感銘を受けました。
キップリングは同じ1897年に、「吸血鬼」という詩を発表します。この年は、ブラム・ストーカーの小説『吸血鬼ドラキュラ』が刊行された年でもありました。
キップリングの詩をもとに、詩の書き出しから引用した「愚者ありき(A Fool There Was)」というタイトルでポーター・エマーソン・ブラウンが書いた戯曲が、1909年にブロードウェイで上演されます。
この戯曲は翌年、1910年に早くも『吸血鬼』というタイトルで映画化されていますが、現在そのフィルムは散逸したものとされています。
1913年に製作された同名の映画も、長らく失われたと見られていましたが、ジョージ・イーストマン博物館が所蔵していることが判明しました。
しかし、同じ戯曲を原作にした映画の中で最も有名になったのは、1915年にフォックスが製作した『愚者ありき』です。
元祖ヴァンプ女優、セダ・バラ
1915年に公開された『愚者ありき』は、「キスしてよ、おばかさん(Kiss me, my fool)」といった当時としてはきわどいインタータイトルでも話題になりました。一方、もとになった文学作品へのオマージュとしてキップリングの詩からの引用もインタータイトルで表示されています。
この映画で、妻と娘のいる法律家で外交官の男を破滅させる吸血鬼女を演じた女優が、映画史上初のヴァンプ女優として有名になるセダ・バラです。
バラの『愚者ありき』での正式な役名は「吸血鬼(The Vampire)」でした。
セダ・バラはセオドシャ・バー・グッドマンという本名の、シンシナティ出身のユダヤ系の女優です。彼女は『愚者ありき』に出演したときは、デビューして間もない無名の女優でした。このためフォックスは過激な宣伝とともに、「ヴァンプ」のキャッチコピーで彼女を売り出しました。
セダ・バラ(Theda Bara)という芸名の由来ははっきりしません。『愚者ありき』の監督を務めたフランク・パウエルが、セダ・バラの親戚のニックネームにちなんでつけた、という説が有力です。
しかし、1917年にセダ・バラが主演を務めた『クレオパトラ』が公開されるときに、フォックスは、セダ・バラという名前を「Arab Death」のアルファベットを並べ替えたものである、といって宣伝しました。しかも同じ1917年に、彼女の実家のグッドマン家も、「バラ」に改姓したそうです。
セダ・バラは続けてカルメン、クレオパトラ、サロメなど数々の妖婦役を演じ、当時としては露出度の多い衣装で知られるようになりました。こういった衣装は1930年以降、いわゆる「ヘイズ・コード」によって禁止されてしまいます。
セダ・バラは1921年に映画監督と結婚して、映画界から事実上引退しました。
その他のヴァンプ女優
セダ・バラ以降、同種の妖婦役を演じる女優も「ヴァンプ」や「ヴァンプ女優」と呼ばれるようになりました。
ヴァンプ女優としては、以下の女優が有名です。
- ニタ・ナルディ
- ポーラ・ネグリ
- バーバラ・ラ・マー
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