マコーレー・カルキンの波乱万丈な過去と現在を徹底解説

2023年9月9日土曜日

ハリウッド

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マコーレー・カルキン、1991年

マコーレー・カルキンの波乱万丈な人生を紹介!

史上最高のクリスマス映画にあげられることが多い『ホーム・アローン』。クリスマスに1人で家に取り残された少年ケビンが、知恵を駆使して泥棒3人組を撃退するコメディ映画です。

この映画でケビン役を演じたのが、俳優のマコーレー・カルキンです。しかし、映画公開から30年以上が経過し、彼の名前を映画のキャストで見ることはほとんどありません。

一時期、マコーレー・カルキンは「死亡した」と報道されたことさえありました。では、この映画の後、マコーレー・カルキンはどうなったのでしょうか?実は、この可愛らしい少年の背後には、父親によって働かされる子役俳優としての一面が隠されていました。

今回は、父親の影響で波乱万丈な人生を送った俳優マコーレー・カルキンの人生に迫ります。子どものことや改名騒動の真相、現在の名前についても解説していますから、最後までゆっくりしていってください!

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幼少期から子役時代

マコーレー・カルキンは1980年8月にニューヨークで生まれました。

父親のキット・カルキンは、ニューヨーク生まれの元役者で、若い頃にはブロードウェイの舞台でリチャード・バートンやローレンス・オリビエ、アンソニー・クインといった名優たちと共演し、俳優としての夢を追いかけていました。これは、キットの母親がライター・編集者として働く傍ら、芸能マネージャーとしての才能も持っていたことに関連しています。このため、キットの妹であるボニーもテレビドラマなどで活躍する女優になりました。

しかし、マコーレー・カルキンが生まれた頃、キットは俳優として成功を収めておらず、カトリック教会で教会用品の管理をして生計を立てるほどに落ちぶれていました。一方、マコーレー・カルキンの母親はコールセンターで働いており、経済的にも余裕はありませんでした。

1974年に、2人は道路工事現場で知り合い、正式に結婚はしていませんが、7人の子供を持つ家庭を築きました。そのうち、キットと別の女性との間にも子供が生まれており、収入が限られている状況で多くの子供を養うことは難しい状況でした。

そのため、マコーレー・カルキンは幼少期からYMCAのダンススクールでバレエを学び始め、舞台の才能を早くから発揮しました。後にはニューヨーク・シティ・バレエ団の学校であるアメリカン・バレエ・スクールに進学しています。アメリカン・バレエ・スクールは父親のキットや叔母のボニーも通っていた名門バレエ学校です。

マコーレー・カルキンが初めて立った舞台は、ニューヨーク・フィルハーモニー管弦楽団の『バッハ・ベイビーズ』という公演でした。これがきっかけで10歳にも満たない彼は舞台やテレビで活躍し始めました。

そして、1988年、8歳になるマコーレー・カルキンは映画デビューを果たします。その映画は、『ジブラルタル号の出帆』というヒューマンドラマで、マコーレー・カルキンは名優バート・ランカスターが演じる老人の孫役で注目を集めました。

マコーレー・カルキンは同じ1989年にアメリカで公開された『おじさんに気をつけろ!』というコメディ映画にも出演しています。

日本では劇場公開されなかった『おじさんに気をつけろ!』は、1980年代に青春映画でヒットを飛ばし続けていたジョン・ヒューズが監督と脚本を務めた作品です。

この映画はジョン・キャンディ演じる独身男が、ひょんなことことから15歳から6歳までの姪や甥の面倒を見ることになった混乱ぶりを描いています。

マコーレー・カルキンが演じたのは、破天荒なおじさんにすぐなつく、8歳の少年マイルズ役です。

対するおじさん役のジョン・キャンディですが、彼は1997年に43歳の若さで亡くなるまで、コメディばかりでなく『JFK』といったシリアスな映画でも才能ある演技を見せていました。

ジョン・キャンディは『ホーム・アローン』にも脇役の1人として出演しています。

さて、『おじさんに気をつけろ!』は興行収入も伸びず、評価もあまりよくありませんでしたが、マコーレー・カルキンにとっては重要な作品となります。

この映画でのマコーレー・カルキンの明るくかわいい演技に目を付けた監督のジョン・ヒューズが、彼を『ホーム・アローン』の主役に推薦してくれたからです。

1990年代、『ホームアローン』で世界一稼いだ子役に

『ホームアローン』のアイデアは、ジョン・ヒューズが休暇に出かける準備をしているときに生まれました。

休暇に持っていくのに忘れてはいけないもののリストを作っていたジョン・ヒューズは、「子どもたちも忘れてはいけないな」と思いました。そのとき彼はふと「10歳になる息子が1人で家に置いてけぼりにされたら、どうするだろうか」と考えます。そこから子どもが泥棒を怖がっていることを含めて8ページほどのメモが生まれ、それをもとに映画の脚本の執筆が進められたそうです。

ジョン・ヒューズは、この脚本を監督として映画化する話を、脚本家で監督でもあるクリス・コロンバスに持ちかけました。クリス・コロンバスは、当時『ナショナル・ランプーン/クリスマス・バケーション』の主演俳優・チェビー・チェイスと対立して監督を降りることになり、手が空いていたのです。

ジョン・ヒューズが『ホーム・アローン』の主役にマコーレー・カルキンを推薦しましたが、クリス・コロンバスはすぐには認めませんでした。そのため、クリス・コロンバスは200人以上の子役を集めたオーディションを行っています。

オーディションには当時スケッチ・コメディーの子どもグループで頭角を表していたジョン・ムレイニーなど、実力派の子役も参加しましたが、最終的にはマコーレー・カルキンがケビン役に選ばれました。

共演者のジョー・ペシは、マコーレー・カルキンは可愛かったが、年齢に似合わずプロだったと回想しています。『ホーム・アローン』の制作は予算の問題や泥棒役のジョー・ペシの脚本に対する不満などで難航しましたが、最終的には1990年11月に全米公開され、大ヒットとなりました。

マコーレー・カルキンはこの映画の演技で、ゴールデン・グローブ賞にノミネートされています。

こうして一躍スターとなったマコーレー・カルキンは翌年1991年にはテレビや映画に引っ張りだことなります。

後で問題となるマイケル・ジャクソンのミュージックビデオに出演したのも、1991年のことでした。

1991年には青春コメディ映画『マイ・ガール』に出演し、主人公の幼なじみ役を演じています。

この映画の撮影のために、本物のハチの群れのなかに放り込まれたマコーレー・カルキンは、ハリウッドで初めて100万ドルを超えるギャラを手にします。

1992年にマコーレー・カルキンは『ホーム・アローン2』に出演し、ケビン役を再び演じました。この続編も大ヒットし、マコーレー・カルキンのキャリアは頂点に達しました。

クリスマスのニューヨークを舞台にした『ホーム・アローン2』には、当時不動産王だったドナルド・トランプ大統領もチョイ役で出演しています。

前作のとき11万ドルだったマコーレー・カルキンのギャラは、『ホーム・アローン2』では450万ドルと40倍以上に跳ね上がり、彼はこの当時、世界一稼いだ子役になっています。

しかし、まだ15歳にもならないにもかかわらず、次々と仕事を続けることによる疲れが見え始めてきます。

マコーレー・カルキンのマネージャーを務めていた父親のキット・カルキンの思惑が、彼の肩に重荷をかける要因となったのです。

キット・カルキンはもともとマコーレー・カルキンに「言うことを聞かないと殴るぞ」と言って脅すなど、良い父親ではありませんでした。

キット・カルキンは、金を稼ぐために次々と役を引き受け、息子に強制しました。その顕著な例が、1993年に公開されたサイコスリラー『危険な遊び』です。

この映画は、『ホーム・アローン』と『羊たちの沈黙』の大ヒットに刺激された20世紀フォックスが、子ども映画とサイコスリラーを合体させた作品です。

ダブル主演にマコーレー・カルキンとイライジャ・ウッドという、 当時最も注目を集めていた子役2人が起用されました。

それまでマコーレー・カルキンは明るくかわいい役がほとんどだったのですが、この映画ではかわいい外見の裏で悪事を働くサイコパスの役を演じます。

実はこの役を決めてきたのは、父親のキット・カルキンだったのです。

『危険な遊び』の製作の話を聞きつけたキット・カルキンは「息子の演技の幅を広げればもっと儲かるだろう」とこの悪役に飛びつきました。

そこでマコーレー・カルキンが『ホーム・アローン2』に出演する条件の1つに、『危険な遊び』の出演も含めることで、このキャスティングをスタジオに認めさせたのです。

マコーレー・カルキンは父親の無理な要求に応えるため全力を尽くしましたが、映画は失敗に終わりました。

同じ1993年には、ニューヨーク・シティ・バレエの『くるみ割り人形』映画版にも出演しましたが、マコーレー・カルキンの演技は「セレブのお客様のようだ」と酷評されてしまいました。

さらに、1994年には『リッチー・リッチ』をはじめ3本の映画に出演しましたが、どれも失敗作に終わり、ゴールデンラズベリー賞にノミネートされています。

もっともゴールデンラズベリー賞は、シルベスター・スタローンが10回も受賞しているので、必ずしも不名誉なことではありません。

ともあれ、これまで父親の強要で次々と映画に出演してきたマコーレー・カルキンは、失敗作続きでついに心が折れてしまいます。

マコーレー・カルキンは『リッチー・リッチ』を最後に「俳優業からしばらく引退する」と宣言します。

その背景には、マコーレー・カルキンが稼ぐ金に目がくらんだ彼の両親の対立もあったのです。

両親のトラブル

マコーレー・カルキンの父親と母親は正式に結婚しておらず、1990年代半ばに2人の関係は完全に冷え切り、別居することとなりました。彼らはマコーレー・カルキンを含めた子どもたちの養育権を巡って、何年にも渡る法廷闘争を始めます。法廷では、キット・カルキンがアルコール依存症でいつも子どもに暴力をふるっていた、という証言も飛び出しました。

しかし、マコーレー・カルキンにとって最も辛かったのは、両親が子どもの愛情を巡って争っていたのではなく、自分が稼ぐお金を巡って争っていたということです。後にマコーレー・カルキンは、自分の信託基金の管理から両親を外して、彼らと絶縁状態になりました。

養育権は母親が得たため、それまでマネージャーとしてマコーレー・カルキンに仕事を強制してきた父親の影響はなくなりました。

マコーレー・カルキンは父親が自分のことを嫉妬していたのではないか、と疑っています。父キット・カルキンが一生かけてもできなかったことを、マコーレー・カルキンは10歳になる前に越えてしまったからです。

さらに、マコーレー・カルキンは父親は精神的にも暴力を振るうことがあった、とも言っています。

18歳になって成人したマコーレー・カルキンは、自分のそれまでの収入の一部が払い込まれていた口座の残高を初めて目にしました。

アメリカ・カリフォルニア州には「クーガン法」と呼ばれる、子役のギャラの一部を保護口座に払い込むことを義務付ける法律があります。

この法律のおかげで彼の保護口座に振り込まれていたギャラは、1,700万ドルに上っていました。この残高を見たとき、マコーレー・カルキンは自分が稼いだお金であるという実感がわかなかったと言います。

とは言え、仕事の重圧から解放されたマコーレー・カルキンは、ニューヨークにある子役のための私立高校に通い始めました。そこでマコーレー・カルキンは、初めて同世代の友人たちと交流し、人並みに恋にも落ちます。

マコーレー・カルキンが恋に落ちた相手は、レイチェル・マイナーというやはり子役の同級生でした。マコーレー・カルキンは1998年4月に17歳で高校を中退して彼女と結婚し、世間をあっと言わせます。しかしこの若い結婚は長く続かず、2000年に別居、2002年に正式の離婚となっています。

マイケル・ジャクソンとの交流

一方、1990年代から子役としての重圧に悩むマコーレー・カルキンの支えとなったのがマイケル・ジャクソンとの交流です。

『ホーム・アローン』が大ヒットしたのと同じ頃、1991年にマコーレー・カルキンはマイケル・ジャクソンの「ブラック・オア・ホワイト」のショートフィルムのイントロ部に出演。そのことが縁となってマイケル・ジャクソンとも親しくするようになります。

マイケル・ジャクソンも5歳で兄弟と共に「ジャクソン5」というグループでデビューして以来、普通の子ども時代はなく、仕事だけの人生でした。マイケル・ジャクソンは、同じようなマコーレー・カルキンの境遇をよく理解できたのです。

楽しい子ども時代がなかったマイケル・ジャクソンは、家に子どもを招待して、幸福な時間を過ごすことを楽しみにしていました。マコーレー・カルキンもマイケル・ジャクソンに家に招待された子どものひとりです。

しかし、マイケル・ジャクソンが大金持ちであることに目をつけた一部の子どもの親が、マイケル・ジャクソンが子どもに手を出した、といって裁判を始めました。その裁判でマコーレー・カルキンは、マイケル・ジャクソンを弁護する証人として登場して話題になっています。

マコーレー・カルキンは、マイケル・ジャクソンと同じベッドで寝ることがあったが、何も悪いことはしなかった、と証言しました。さらにマイケル・ジャクソンが子どもに何か悪いことをするのを、自分は見たことも聞いたこともない、とも証言しています。

マイケル・ジャクソンが無罪判決を勝ち得た要因の1つは、マコーレー・カルキンの証言であったとさえ言われています。

いずれにせよ、マコーレー・カルキンとマイケル・ジャクソンの交流はマコーレー・カルキンが成人してからも続きました。マコーレー・カルキンはマイケル・ジャクソンの2人の子ども、パリスとマイケル・ジュニアのゴッドファーザーになっています。

キリスト教のゴッドファーザーは、一生自分の子どものように相談に乗るなど重要な役割です。カトリックとして育てられたマコーレー・カルキンは、この役割を真面目に果たしています。

たとえば、パリス・ジャクソンがテレビシリーズのオーディションを受けるとき、マコーレー・カルキンは彼女に、劇場での演技のように大げさにやりすぎるぐらいがよい、とアドバイスしました。そのせいか、パリス・ジャクソンはこの役を見事にゲットしたそうです。

さらに、2017年にはマコーレー・カルキンとパリス・ジャクソンがおそろいのスプーンのタトゥーを入れていることが明らかになりました。

マコーレー・カルキン、パリス・ジャクソン、タトゥー

なぜスプーンなのかと言うと、これもマコーレー・カルキンのアドバイスと関連があります。これまでの人生で苦労してきたマコーレー・カルキンは、いつも袖のなかに切り札を隠しておくように、ということを肝に銘じてきました。

そのアドバイスを受けたパリス・ジャクソンは、レストランや飛行機からスプーンを1つ盗んできてお互いにプレゼントすることを始めました。つまり2人にとってスプーンは秘密の切り札のシンボルなのです。

2000〜2010年代

2000年代から2010年代へと時代が進み、マコーレー・カルキンの人生にはさまざまな出来事が起こりました。2000年にマコーレー・カルキンは20歳を迎え、大人になった彼の人生は決して平坦なものではありませんでした。

俳優としてのマコーレー・カルキンは、2003年の映画『パーティ・モンスター』で本格的に復活します。大人になったマコーレー・カルキンの初めての大役は、今までの彼のイメージとは違う、薬物常習者にして殺人犯のパーティ・プロモーターという難役でした。マコーレー・カルキンはこの実在の人物になりきって、彼の演技力が本物であることを見せつけてくれました。

翌年2004年には、『セイブド!』というブラック・コメディ映画に出演。この映画でマコーレー・カルキンは、下半身麻痺で車椅子に乗っている役を演じるため、撮影の数ヶ月前から車椅子生活を送るほどの力を注ぎ込みました。『セイブド!』は日本で劇場公開がないインデペンデント映画でしたが、興行収入は1000万ドルを越え、カルト的人気がある作品です。

2006年には、インデペンデント映画のブラック・コメディ『男と女の不都合なセックス事情』に出演して話題になりました。

しかし、2000年代はマコーレー・カルキンにとってプライベートの面で不幸が重なりました。2000年5月に義理の姉、ジェニファーが薬物の過剰摂取で急死し、女性関係では2002年に離婚した後、女優のミラ・クニスとの関係が破綻し、さらに2004年には大麻などの所持で逮捕、2008年には姉ダコタが交通事故で亡くなりました。この頃がマコーレー・カルキンの人生のどん底に見えました。

2012年夏に激やせしたマコーレー・カルキンの写真がスクープされ、その後「余命6カ月」から「死亡」といった誤報が相次ぎましたが、彼は悠々自適の生活を送っていました。

この頃のマコーレー・カルキンの活動で最も注目を集めたのは、友人たちと共に結成した「ピザ・アンダーグラウンド」というバンドです。このコメディ・ロックバンドは、有名なロックバンド・ヴェルヴェット・アンダーグラウンドの楽曲をパロディ化するもので、歌詞や曲名はすべてピザに関するものばかりでした。マコーレー・カルキンはこのバンドで、ピンクの猫耳をつけてカズー、パーカッション、ボーカルなどで大活躍しました。残念ながら、このバンドは2018年に活動を休止しています。

2010年代に入ってマコーレー・カルキンは、演技することをやめて、自分本来の姿であることを楽しむようになったようです。2018年以降は、インデペンデント製作会社の作品に、自分自身やそのパロディとして積極的に出演し、また、2018年にはグーグルアシスタントの広告で、16年ぶりにケビン役を演じて話題になりました。

マコーレー・カルキン改名の真相、現在の名前は?

2018年、マコーレー・カルキンは人気トーク番組「ザ・トゥナイト・ショー・スターリング・ジミー・ファロン」に出演し、自身のウェブサイト「bunny ears」を通じて新しいミドルネームをファンが投票で決めることを明らかにしました。

カルキンは、新しいミドルネームにしたい理由について次のように語っています。「最近、パスポートで自分のミドルネームを見ていたら、今のミドルネームは“カーソン”なんだけど(アイルランドなまりで)『マコーレー・カーソン・カルキン』って言わなきゃいけないなって。すごくアイリッシュでしょ。だからちょっとおめかししようかなと思って」とのこと。

候補になったのは、次の5つのミドルネームでした。

  • 「マコーレー・カルキン」
  • 「シャーク・ウイーク」(ディスカバリーチャンネルのサメ特集のこと)
  • 「キーラン」(弟の名前)
  • 「ザ・マックリブ・イズ・バック」(マクドナルドのバーガー、マックリブが復活したという意味)
  • 「パブリシティー・スタント」(売名のこと)

そして、「マコーレー・カルキン」が圧倒的な支持を受けて選ばれました。

「みんなからオレに、メリークリスマス! 新しいミドルネームが選ばれた。みんなが投票してくれて、勝者が決まった。2019年、法的にオレの新しい名前は『マコーレー・マコーレー・カルキン・カルキン』になる。いい響きだ(もしオレの名前が好きなら)」と、マコーレー・カルキンは2018年12月にツイートしています。

ジミー・ファロンの番組に出演した際、「本当に改名するの?」と尋ねられたカルキンは、「ああ、法的に名前を変えるよ」と明言。しかし、2019年4月に「驚くほど大変なプロセスなんだ。 だけど、今も取り組んでいるよ」とツィートした後は、続報がありません。

このため、マコーレー・カルキンの現在の名前はWikipediaによれば、「マコーレー・カーソン・カルキン」です。

マコーレー・カルキンの現在

2020年8月、永遠の少年と思われていたマコーレー・カルキンは、ついに40歳の誕生日を迎えました。この日を記念した彼のツイートは、史上9番目に「いいね!」されるほど人気になり、マコーレー・カルキンの知名度が相変わらず高いことを示しました。

2021年、男の子を授かる

翌年の2021年4月、マコーレー・カルキンはついに父親になりました。子どもの母親はアジア系の女優ブレンダ・ソングです。

ブレンダ・ソングは1988年生まれ、マコーレー・カルキンより8歳若く、彼と同じように子役としてテレビで活躍していました。彼女は2010年の『ソーシャル・ネットワーク』以来、メジャーな映画にも出演するようになっています。

マコーレー・カルキンがブレンダ・ソングと交際していることは、2017年から知られていました。

彼女との間に生まれた子どもは男の子でしたが、2008年に亡くなったマコーレー・カルキンの姉にちなんでダコタと名付けられました。

俳優活動も継続

父親となった2021年には、俳優として久しぶりに本格的な仕事をした作品も公開されています。2011年から放送されているホラーテレビシリーズ、『アメリカン・ホラー・ストーリー』第10シーズンのメイン・キャストの1人として、マコーレー・カルキンは出演しました。このシーズンは評判が良く、日本公開が待ち遠しいですね。

波乱万丈の人生を経て自分本来の姿を楽しむようになったマコーレー・カルキンは、絶縁状態と言われていた母や兄弟とも連絡を取り合っており、心にゆとりができた様子です。人生のさまざまな経験を経て、彼は今もなお多くの人々に愛される存在であり続けています。

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