各週のはじめには、その週の重要な出来事をピックアップしておきました。
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1945年6月25日〜7月1日
ベルリン市民にとって、この週のなにより明るい出来事はベルリン動物園が再開したこと(7月1日)です。同じ日にアメリカ軍の第1陣が到着しました。6月25日(月)
- ベルリン南西部ダーレムにある詩人ヨハネス・R・ベッヒャー宅に、文学者、文化人、学者が集まり「ドイツを民主主義的に変革するための文化人同盟」を結成しました。
- プレンツラウアー・ベルクのシェーンハウザー通りにある映画館「コロッセウム」でドイツ共産党大ベルリン支部の幹部会議が開催されました。主な議題は、6月11日にドイツ共産党が発表した声明文に関するヴァルター・ウルブリヒト氏の報告でした。
6月26日(火)
- 共産党と社会民主党(SPD)に続いて3番目の政党として、キリスト教民主同盟(CDU)がベルリンで結成されました。
- ベルリン東南部トレプトウで第2次世界大戦終戦後初めて学校の授業が開始されました。
6月27日(水)
- シュレージッシャー駅(現在のベルリン東駅)にモスクワからの特急列車が到着して、ドイツとソ連の間の鉄道交通が再開しました。
6月28日(木)
- ベルリン市政府国民教育課はトラウゴット・ベーメ博士をダーレムにあるプロイセン秘密公文書館の所長に任命しました。ベーメ博士の任務はベルリンにある全ての公文書館の管理を統括することでした。
6月29日(金)
- ナチス政府によって、強制的に退職させられていたエルンスト・ケーバー博士がベルリン市公文書館の所長に復職しました。
- ベルリン市政府国民教育課はベルリンにある国及びベルリン市の公文書管理組織の再編を迅速に行うよう指示しました。
6月30日(土)
- 戦争でオペラ座を破壊されたドイツ国立歌劇場が、フリードリッヒ通りにあるアドミラールスパラスト劇場で戦後初めての公演を行いました。
- 事実上のソ連軍支配地域における政府であった在独ソ連軍政府(SMAD:最高司令官ゲオルギー・ジューコフ元帥)の命令により、ベルリン市政府は3日以内にナチ党員を全ての公職から追放するよう指示しました。
7月1日(日)
- ソ連によって設備を組織的に奪われたにもかかわらず、フリードリヒスハインには大小合わせて6,294箇所の工場が存在しました。
- ベルリン動物園が市民に再び門を開きました。動物園はベルリンに赤軍の最初の砲弾が落下した4月22日から門を閉ざしていました。職員の自宅などで飼育されて戦争を生き残った動物は約100頭でした。象1頭、カバ1頭、熊1頭、ダマジカ1頭も奇跡的に生き延びました。
- カールスホルスト競馬場で戦後初の競馬が行われました。これは6月に交通事故で死亡したベルリン司令官で大の競馬好きであったニコライ・ベルザーリン大将が指示していたものでした。
- 「ドイツ国民警察(ドイチェ・フォルクスポリツァイ)」が6月1日に創設されてから1ヶ月間の間に、ベルリン全体で大小170ヶ所の警察署が設置されました。
- ドイツ東部ザクセン州とチューリンゲン州に駐留していた西側連合軍が、ヤルタ会談で割り当てられた占領地域への移動を開始しました。アメリカ軍の最初の部隊もベルリン市の境界線に到着しました。
- 将校50名、下士官兵140名からなる在独アメリカ軍政府の第1陣がベルリンに到着しました。ベルリンの米英ソ3ヶ国による分割統治を定めた1944年9月12日のロンドン議定書に基づくアメリカ・セクターの管理を正式に開始したのは、7月4日からです。
1945年7月2日〜7月8日
この週の重要な出来事は、7月4日にアメリカ軍とイギリス軍が正式にベルリン占領を開始したことです。7月6日には謎の殺人事件が起きています。
7月2日(月)
- シャルロッテンブルクのガス施設が操業を再開しました。
- ソ連の占領軍がアメリカ軍政府にテンペルホーフ空港の使用権を譲渡しました。
- この日までにベルリンの大学に提出された入学願書は1,428人分にのぼり、うち775人は医学部志望でした。
- ベルリン市政府保健課に設けられた救命局は救急患者の搬送サービスと空き病床リストの作成を開始しました。
7月3日(火)
- マズーレン通りにあるベルリン放送局の大スタジオで、作家のヨハネス・R・ベッヒャー氏とベルンハルト・ケラーマン氏が、1,500人の観客を前に「ドイツを民主主義的に変革するための文化人同盟」の活動計画について説明しました。
- ベルリン市政府は、自らが所有する土地で25本以上のタバコの草を栽培した場合、納税義務が生じると発表しました。税額は26本以上100本以下で5ライヒスマルク、101本以上200本以下で10ライヒスマルクでした。
- ベルリン商業学校の設立に参画した経済学者フリードリッヒ・ライトナー氏が亡くなりました。
7月4日(水)
- ベルリン・ティアガルテン区役所前に20,000人の市民が集まりドイツの平和な再出発を誓うデモを行いました。このデモは、ドイツ共産党(KDP)、社民党(SPD)、キリスト教民主同盟(CDU)、自由民主党(LDP)が共同で企画したものでした。
- マズーレン通りにあるベルリン放送局の大スタジオで「ドイツを民主主義的に変革するための文化人同盟」が初めての宣言集会を行いました。文化人同盟のマニフェストは俳優のカイ・メラー氏によって読み上げられました。
- アメリカ軍とイギリス軍が、それぞれ割り当てられた地域の占領を開始しました。それまではソ連軍が単独でベルリンを占領していました。ちなみにフランス軍がベルリンに到着するのは8月のことになります。
7月5日(木)
- この日ベルリンで自由民主党(LDP)が正式に立党を宣言しました。初代党首には経営工学社のヴァルデマー・コッホ氏が就任しました。
- ベルリンの大学に、ナチスによって職を追われた教職員を復職させるために、ナチス時代の過去を審査する「臨時顧問委員会」が設置されました。
- アルツール・ヴェルナー・ベルリン市長は物理学者のローベルト・ハーヴェマン氏を「カイザーヴィルヘルム学術振興会」の臨時会長に任命しました。
7月6日(金)
- ヴィルマースドルフ区カーリッシャー通りの火葬場前で、防空用ストレッチャーに乗せられた男性の遺体が発見されました。殺人の疑いがあるとのことで、市民に対して情報提供を求める呼びかけが行われました。
7月7日(土)
- アメリカ、イギリス、ソ連の3ヶ国の連合国軍の代表からなる司令部が、ベルリン全体の軍政を統括する連合国軍総司令部(IAMC)を正式に立ち上げるための詳細を決定しました。
- ドイツ社会民主党(SPD)中央委員会編集の党機関紙「人民ダス・フォルク」が創刊されました。初代編集長にはオットー・マイアー氏が就任しました。
7月8日(日)
- フリードリッヒ通りのアドミラールスパラスト劇場で共産党(KPD)と社会民主党(SPD)が共同集会を開きました。両党は反ファシズムの精神で共同路線を歩むことを確認しました。
1945年7月9日〜7月15日
7月14日と15日の週末の出来事でベルリン市民に身近なことはベルリン南東部のケーペニックで学校の授業が再開されたことと、クロイツベルクで美術展が開催されたことです。7月12日の写真でみるブランデンブルク門周辺の景色がベルリンの夏の空と廃墟の様子を伝えています。
7月9日(月)
- ベルリン市政府が、ナチス党員が所有していた全ての映画館を没収すると決定しました。
- ベルリン大学臨時学長エドアルド・シュプランガー教授が、ベルリン・オリンピック会場にある建物を戦争で破壊された大学の建物の代わりに利用することを、ベルリン市に書簡で提案しました。
7月10日(火)
- ベルリン市政府は、市の条例などを公告する『公報』を初めて編集出版しました。
- 7月7日に発足が決定した米英ソ3カ国からなる連合国軍総司令部(IAMC)にフランスも参加するよう呼びかけがなされました。
- 中道リベラル派自由民主党(LDP)と中道右派キリスト教民主同盟(CDU)がソ連軍から政党として認可を受けました。
7月11日(水)
- ケーペニックにあるグリューン通り映画館でケーペニック小学校の開校式が行われました。
- 連合国軍総司令部(IAMC)の最初の会合が行われ、ソ連軍司令官による治安維持に関する施策が確認されました。
7月12日(木)
- イギリス軍政府がライニッケンドルフ区の占領を開始しました。
- アメリカ軍がテンペルホーフ空港の管理をソ連軍から引き継ぎました。
- ブランデンブルク門で行われた式典で、イギリス軍のモントゴメリー元帥が、ソ連軍のジューコフ元帥、ロコソフスキー元帥、ソコロフスキー将軍に勲章を授与しました。上の写真はその時のもので、ブランデンブルク門まわりの廃墟と、ベルリンの7月の空がカラーで鮮やかに捉えられています。
7月13日(金)
- ドゥンカー通りにある学校の講堂にベルリン地域の共産党(KPD)と社会民主党(SPD)の幹部400人が集まり、最初の共同集会を開きました。
7月14日(土)
- 連合国軍総司令部(IAMC)がベルリンにおける自動車の割当数を決定しました。トラックは住民150人あたり1台、乗り合いバスは住民5,000人あたり1台、乗用車は住民450人あたり1台がそれぞれ割り当てられました。
- 共産党の提案で、半強制的にベルリンの4大政党が「反ファシズム=民主主義政党統一戦線」に結集しました。
7月15日(日)
- ケーペニックの小学校が、ベルリンで戦後初めての活動を開始しました。
- ベルリンの「文化集団」がクロイツベルク、ハレッシェ通りにあるベルリン商業学校の講堂で戦後初めての美術展を開きました。
1945年7月16日〜7月22日
この週からポツダム会談が始まりました。ベルリン市の警備もその前から強化されていました。下の写真は7月16日に廃墟となったヒットラー総統官邸を訪れたチャーチル首相です。闇市の食料品や、交通ルール違反への取り締まりが強化されるなど、戦後の混乱からの過渡期を象徴するニュースが相次ぎます。
7月16日(月)
総統官邸の廃墟を訪れたチャーチル首相 |
- アメリカのトルーマン大統領とイギリスのチャーチル首相が、ポツダム会議に迎う前に戦争で破壊されたベルリンの街を視察しました。
- ベルリン市政府は学生団のための政治プログラムを公表しました。
7月17日(火)
- プレンツラウアー・ベルクのカスターニエン通りにあるビア・ガーデン「プラーター」のホールで「自由ドイツ労働組合連合」の幹部会議が初めて開催されました。
- ポツダムのチェチーリエンホーフ宮殿で、ドイツ降伏後初めての米英ソ首脳会談が始まりました。ポツダム会議は8月2日まで行われました。
- パウル・マルクグラーフ・ベルリン市警察長官が、闇市で肉を買うことを禁止する旨布告しました。その中で、「動物検査」を受けていない肉を食べることに伴う危険性が強調されました。
- ベルリン市長アルトゥール・ヴェルナー博士は、ベルリンの企業家、工場主、手職人などの製造業者に対して、全力と臨機応変の才をもって必要な機械の生産にあたるよう呼びかけました。
7月18日(水)
- ベルリン各地の映画館でソ連軍によるベルリン陥落を記録したドキュメント映画「ベルリン」が封切られました。
7月19日(木)
- ベルリン市政府は、ベルリンに置かれていたプロイセン総督府を解散して、その機能をベルリン市政府の各課に移譲することを決定しました。
7月20日(金)
- 税務署が、7月10日が支払期日であった1945年4月から6月分の税金の売上税と賃金税の滞納者に対する通知書を発送しました。
- ベルリン警察署が交通規則を遵守するよう公報で呼びかけました。特に歩行者と自転車の交通ルール違反が目立っていたことが問題となっていました。
- ベルリン市政府は、無許可で文化教育関連の催しを行うことを禁止すると発表しました。無許可でそのような催しを行った企業は強制的に閉鎖することもあるという厳しい規制でした。
7月21日(土)
- ベルリンにあるプロイセン学士院長に古典学者のヨハネス・シュトルクス氏が選ばれました。
- ソ連軍のシューコフ元帥が、ソ連軍占領地域の自治体の長とベルリン市長に生活必需品の生産設備を復旧させるよう指示しました。
- チャーチル首相がシャルロッテンブルガー通り(現在の6月17日通り)でイギリス軍の戦勝パレードを鑑賞しました。上の動画の1分21秒のところから短い間ですが、当時のベルリンの食糧事情が紹介されています。乾燥芋が配給されているという厳しい食糧事情です。
- ノイケルン区のスタジアムで戦後初めてのベルリン市新聞配達員自転車競走が行われました。
- カール・マーロン・ベルリン市首席助役が区長会議席上で、ベルリンにあるすべての車両とりわけ自動車はすべて赤軍の戦利品とみなされ、自動車は私有物ではないと宣言しました。
7月22日(日)
- プレンツラウアー・ベルクのシェーンハウザー通りにあるコロッセウム劇場で、青少年集会が行われ、ベルリン市長アルトゥール・ヴェルナー氏が挨拶を行いました。
- ベルリンの放送局が戦後初めてカトリック教会の朝の礼拝を中継しました。司会はベルリン市教会関係諮問会議座長のペーター・ブーフホルツ牧師でした。
- ベルリン市の逓信課が電話回線開通を申請するときに遵守すべき形式を公表しました。
- 中道右派キリスト教民主同盟(CDU)の機関紙「新時代」が創刊されました。
1945年7月23日〜7月29日
この週はあまり大きなニュースはないのですが、郵便の集配が再開されたり電話帳が発行されるなど、市民生活の改善が見られました。7月23日(月)
- ベルリン市政府は、歴史的・美術的価値が高い建物の復旧保全策の第一弾を決定しました。対象としては、聖マリア教会、武器庫(ツォイクハウス:現在ドイツ歴史博物館の建物)、ベルリン大学の建物などがあげられました。
- アメリカ軍政府は、ナチス党によって職を追われたいたアルツール・ヨッヘム氏(71歳)をシュテーグリッツ区長に任命しました。
- この日までにベルリン市の行政から25,740人のナチス党員が追放されました。
7月24日(火)
- ベルリンの4大政党が市民に農作物収穫の手伝いをするよう呼びかけました。
- 戦争で被害を受けたベルリン工科大学の瓦礫を撤去するために、大学に入ることのできなかった人たちからなる「撤去回収部隊」を組織しました。
- ベルリンで郵便物の集荷と配達が再開されました。
7月25日(水)
- 連合国軍総司令部(IAMC)の命令でベルリンの全住民の登録が開始されました。8月25日を目処に進められたこの調査は、ベルリンの正確な人口を調査することが目的でした。
- 連合国軍総司令部(IAMC)がダーレムのカイザヴェルタース通りにあった公共火災保険協会の建物(現在ベルリン自由大学)を、会合に利用し始めました。
- ベルリン市政府が、ベルリン工科大学における「予備講座」の開講を許可しました。この講座は大学入学志願者のために必要な知識を準備することが目的でした。
7月26日(木)
7月27日(金)
- 戦後初のベルリンの電話帳が発行されました。掲載された電話番号は500でした。
7月28日(土)
- シュテーグリッツ区カミーレン通りで、美術展が開催されました。
7月29日(日)
1945年7月30日〜8月5日
この週の興味深いニュースは、ドイツマルクの偽札が出回っていたこと、イギリス軍占領地域に外出禁止令が布告されたこと、そしてアメリカ軍向け放送が開始されたことです。占領開始から1ヶ月たってようやくアメリカ軍も余暇活動に手が回るようになってきました。
7月30日(月)
- ツェーレンドルフ区皇太子通り(現在クレイ通り)にあるアメリカ軍司令部で開かれた連合国軍総司令部(IAMC)会議で、ベルリンにもフランス軍占領地区を設けることが決定されました。
- ベルリン市政府はナチス党の英雄にちなんで「ホルスト・ヴェッセル区」と改名されていたフリードリッヒスハイン区の名称をもとに戻しました。
7月31日(火)
- ベルリン市の警察長官パウル・マルクグラーフが住民登録義務に関する説明を公布しました。引っ越しをした住民は3日以内に届け出ることが義務付けられました。
- 8月に行われた住民調査の結果、1945年7月31日現在ベルリンでは119,123箇所の事業所で571,856人が働いていることが明らかになりました。この数は戦争前の1939年5月17日時点の就業者数の42.4%でした。
- ベルリン市政府はドイツ帝国銀行の偽紙幣が出回っていることに住民の注意を喚起しました。この偽紙幣は、帝国印刷局で印刷されたのち切断に失敗したため通貨としては使うことがないので処分される予定だった紙幣が、市中に流出したものでした。
- ベルリン動物園が飼育する動物の数を調べたところ、2ヶ月の間にほぼ倍増していたことが判明しました。7月31日の時点でベルリン動物園には56種類194頭の動物が飼われていました。多くのベルリン市民が、餌を手に入れることができなくなったので、動物園に動物を寄付したことが増加の原因でした。
8月1日(水)
- イギリス軍占領地域で午後10時から午前6時までの夜間外出禁止令が発令されました。この時間は軍政府の許可なく外出することが禁じられました。
- シュパンダウ区役所が総合病院を開院しました。この病院はその後、整形外科病院から「シュパンダウ福音主義森林病院」へと発展しました。
- ミッテ区シューマン通りにあるドイツ劇場・小劇場の支配人にグスタフ・フォン・ヴァンゲンハイム氏が任命されました。
- ソ連軍政府はベルリン鉄道局とブランデンブルク水運局の設置を命令しました。
8月2日(木)
- イギリス軍の軍事法廷から4人のベルリン市民が勾留のため引き渡されました。この4人は5日間に渡って被害者4人を不法に監禁して所有物を奪った容疑で逮捕されていました。
- ベルリンの在独イギリス軍政府は、狩猟用・競技用を含む銃器、弾薬、爆発物ならびにその他の武器すべてを8月4日までに提出するよう布告しました。
- イギリス軍のドイツ語広報誌「ベルリン市民」が創刊されました。
8月3日(金)
- 中道リベラル派自由民主党(LDP)の機関紙「暁」が創刊されました。編集者は政治家のヴィルヘルム・キュルツ博士、編集長はヴィルヘルム・ヨーン氏でした。
- 連合国軍総司令部(IAMC)は一般市民が制服、特にドイツ軍の制服を着用することを禁止し、違反者は処罰すると布告しました。
8月4日(土)
- ツェーレンドルフでアメリカ軍が管理する外国人強制労働者を集めて送還するための施設(強制連行者収容所)が開設されました。
- アメリカ軍向けののラジオ局(AFN)が放送を開始しました。
8月5日(日)
- ベルリン市政府は、図書館蔵書の所在を知っている人物には、情報提供の義務があると布告しました。
参考リンク
Berliner Chronik mit Fakten aus acht Jahrhunderten